アルジャーノンに花束を

アルジャーノンに花束を (ダニエル・キイス文庫)

アルジャーノンに花束を (ダニエル・キイス文庫)

 凄まじい。本当に久しぶり、もしかしたら初めてかもしれないけど、本を読んで泣いた。今まで名作だという書評は知っていたけれど、なかなか手に取れなかった一冊。ギブスンのディファレンス・エンジンを買いに行ったら、ハヤカワの100冊に並んでいたのでつい手に取った。その時の気まぐれに感謝したい。
 切ないとも違う、悲しいとも違う、心が震えるよく分からない感情で胸が一杯になる一作。J.D.サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」、ヘルマン・ヘッセの「デミアン」と一緒に、人類が終わるまで読み継いで欲しい。
 この作品を読んでいて怖くなるのは、自分ははたしてどの段階のチャーリーなんだろうか、という疑問。作中ではIQというある意味で絶対的な評価を用いてそれを評価しているけれど、現実では周囲の環境とかも考慮した上で、自分が周囲と比べて上か下かという風に決めなくてはいけないと思う。ちょうど、チャーリーに対するアリスとストラウスとニーマーの関係の様に。問題なのは、自分が他人と比べて上か下かではない。人よりも上か下であるという事実、他人とは同じ場所に居ないという事実である。自分が下であれば、自分は笑いものにされている。自分が上であれば、知らないうちに他人を傷つけている。そして恐らく、自分を含めた全ての人は、両方の状態を同時に満たす。人間は互いに理解し合えないということはよく理解しているつもりである。けれど、この作品のようにそれをまるでグラデーションのように、最初から終わりまでまざまざと見せつけられると、言いようもない恐怖に襲われる。チャーリーが心の中に見ていたもう一人のチャーリーは、俺には居ない。けれどきっと、他人は自分を映す鏡だと言われるように、他人が自分を見ているのだ。俺はバカにされるのも嫌だし、誰かを傷つけたくもない。そんな人間はいったい何処に行けばいいのか。チャーリーはウォレンに行った。ホールデンライ麦畑を夢見た。俺は何処に行けば良いんだろう。
 アリスとの恋模様も、まるで思春期の甘酸っぱい初恋の様相から、少し大人に脚を踏み込んだ泥沼一歩手前への成長が描かれていて、楽しめる。SFだけではなく、ラブストーリーとしても超一流品だとおもう。
 ひとつ疑問がある。現実の世界において、チャーリーの様な知恵遅れの人間は、いったい自身をどのように認識しているのだろうか? チャーリーは、作中で声高に自分が以前も以降も人間であったことを主張する。けれどそれは、チャーリーが手に入れた知性の見せる幻想だったのではないか? そもそもが、普通といわれる俺たちの様な人間だって、本当に自分を認識できているのか疑わしい。自分はまともなつもりでも、実は気付いていないだけで、周囲から見れば異常なのかも知れない。逆もまた然り。
 最近、大学の友人が教職課程の一環として介護体験に出かけた。そして後日にその様子を語ってくれたときに、その友人は「やっぱり、彼らも人間なんだ。世間の人は教えられてそう言うけれど、実際に体験しなくちゃ分からない。触れあってみて、やっぱり人間だって感じた」という旨の事を言っていた。彼は将来、素敵な教師になるだろう。
 「アルジャーノンに花束を」を読んで、障害者の支援に興味が湧いたとか、ボランティアに興味が湧いたとかいうことは一切無い。自分が本に求めることはその影響ではなく、話のおもしろさということもあるが、それだけじゃない。俺は自分が正常だと、周囲の人に思わせることに必死だから、今は人に構っている余裕が無い。俺と同じくらいの歳の人は、大体がそうだと思う。周囲に合わせるように生きている、とまでは言わないが、普通のフリをしなくちゃいけない。俺は、チャーリーにはなれない。
 唯一の救い? は、妹のノーマとの確執が少しでも無くなった事だろうか。

 名言
 ぼくは人間だ、一人の人間なんだ――両親も記憶も過去もあるんだ――おまえがこのぼくをあの手術室に運んでいく前だって、ぼくは存在していたんだ!
 ついしん。どーかついでがあったらうらにわのアルジャーノンのおはかに花束をそなえてやてください。